橋の下流では南北の高い山々から幾筋もの谷川が流れ込み、川幅が広くなる。ところが、橋の部分だけは大岩が額を合わせたように狭まり川幅は30mにも満たず、中津川では最も狭い流路である。牧之は猿飛橋について「川幅が狭いゆえの命名だろう」と記しており、挿画を添えている。また、「今年の秋の洪水で、何年も落ちたことがなかったこの橋も落ちてしまい、その都度掛け直した」と記述している。
『秋山紀行』における猿飛橋の描写
有名な猿飛橋はこの村(註:坂巻)の傍らにあって、とても恐ろしい橋だという。私はその恐ろしいのが望みで、渡ろうと思った。すぐ家の側の木の陰に見えるので、桶屋が先に進んで行く。柴で造った橋が半分は見えるが、こちら側は岩に隠れて見えない。橋際の近くへ行く道は、絶壁の切り立った岩に、わずかに足掛かりを切り込んであるだけであった。
どこから下りたらよいのかわからない。そこで村の家まで引き返して、玄関先で大豆を選り分けている男に、酒手を出して、連れて行って欲しいと無理に頼む。
この男が先に進み、私は、笠も杖も短刀も腰にさしたり、背中にしばり付けたりし、第一の岩角を巡る。見上げると巌石はそびえ立ち、見下ろすと深い淵の水は藍色によどんでいる。名が逆巻というように、水が逆様に渦巻いている。
淵はすぐ足の下、案内の男は私の帯を左手でつかみ、右手で岩角にすがり付いて徐々に下る。やがて橋までもう少しという所に、一つの大きな一枚岩が、水際から天の際まで屏風のように立っている。これではもう一歩も進めない。進むも引き返すも不可能と観念した時、大きな藤で編んだ蔓があった。私は越後の霊山八海山の鉄の鎖を思い出した。また彼の松尾芭蕉が、命をからむ蔦かずら(棧や命をからむ蔦かづら・更科紀行)、と溜め息をつきながら吟じたことをかみしめながら、やっとのことで橋の際に到達した。
そこは三、四人も楽に座れるほどの大きな岩が、中津川へぐっと差し出ていて、ここだけは川幅が狭く、それだけ流れは激しく逆巻いており、その深さも計り知れない。この両岸の狭い所に二本の長し木を渡し、横に柴を組み合わせている。橋は真ん中がたわんでいて気味が悪い。案内の男は、私の手を引いて渡ろうと言う。私はいつものとおり、腹ばいになって中ほどまで進む。橋はしきりに震動している。冷や汗が流れて顔も濡れ、やっとの思いで向こう岸の大岩へたどり着いた。初めて生き返った気分になった。
しばらくこの岩の上の平らな所へ、桶屋に荷を下ろさせ、案内の男とともに休息する。見渡すと、両岸の光景はとても私の筆では書き表わせそうにない。すばらしい形の木、不思議なかっこうの岩、川上から川下まで目を奪い、いつまで見ていても見飽きない。案内の男が帰るのを見ると、足早にすらすらと柴橋を渡る。これには全く感心するほかない。また、猿飛橋と名づけたのも道理だと納得した。
もうここは秋山への入り口なのだから、左や右の高い山から数々の谷川が流れ込み、川幅も広くなる。ところがここの川は底無しと見え、ここだけは、どんなに雷が落ちても崩れそうにない大岩が、額を合わせたように狭まっている。そこでこっち側からあっち側からと、猿が飛び越えるような光景から名づけたのであろう。でも、猿が実際飛び越えるはずはないのだが。川幅が秋山で一番狭いゆえの命名であろう。今年の秋の洪水の時は、万年も落ちたことのなかったこの橋も落ちてしまい、水は、この橋の上二、三メートルにまで達したと、案内の男は話してくれた。
ここからの登り口も険しかった。やっと楽な道まで出うれて、心嬉しく、どんどん進んで、行きに通った東秋山の道を、清水川原村を通過、川西の下結東村へは訪ねられなかったので横目で眺めながら、やっと見玉村の中へと到着した。