006-1:七五三縄高札之圖

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清水川原に到着した鈴木牧之は疱瘡患者の入村を禁ずる高札を目にする。
『秋山記行』には下記の記述がある。

ようやく秋山の入り口、清水川原(しみずがわら)という村に近づく。いよいよ大きな老木が枝をはって道までさえぎり、日の光をおおっている。少し高い所へ登ると、七五三縄(しめなわ)が張ってあり、その真ん中に小さな高札(村の決まりを書き記した命令書)が立っている。読んでみると、
「ほうそうあるむらかたのもの、これよりうちいかならずいるべからず。」
仮名で子どもが書いたものらしい。
ここでしばらく休んでいると、桶屋が言う。
「全く秋山の人は正直一途のところがあります。たとえ、里人で疱瘡持ちの者も、商人も薬売りも、『疱瘡などありません。』と言って村へ入るにきまっています。さてさて、おもしろいことですね。」

(信州大学教育学部附属長野中学校 編:現代口語訳 信濃古典読み物叢書8 秋山記行. 信教出版部. 2019より)

秋山郷における疱瘡患者の扱いについてはまた、別の文献に下記の記述も見られる。
天然痘をたいへん嫌い、万一ほうそうにかかった者は、人里離れた奥山に小屋をかけた所へ隔離する。そして、よそより看病人を頼み、雨風もしのべないほどの小屋に入れておくため、みんな死んでしまう。
薬も用いず、これをたいへん恐れて悪神とののしり、親子の間もかえりみず、死んでもその場にそのまま葬りおく。年月を経てもお墓へも寄せつけずで、ただ放置しておく。隣村の越後の結東村も同様である。(文政8年 箕作村名主、三左衛門の代官への書上帳より)

(信州大学教育学部附属長野中学校 編:現代口語訳 信濃古典読み物叢書8 秋山記行. 信教出版部. 2019より)


ところで、松尾芭蕉が『奥の細道』で越後に入らずに中越から越中に抜けたのは、当時越後のはやり病であった疱瘡を恐れたためと言われている。疱瘡のことは道案内の桶屋の団蔵から 聞いたとされている。『奥の細道』の中で最も越後に近づいた吟句が寺泊の「荒海や 佐渡によこ たう 天の川」であリ、新潟で「海に降る雨や恋しきうき身宿」とされ、これらは夏秋の句であり、芭蕉も秋の末の雪を嫌い越後の雪を避け、他の多くの文人墨客と同じく、越後を訪ねるものの秋の雪を恐れて山にいらず、柏崎、直江津、高田を経て金沢、敦賀、大垣、岐阜に入った。越雪の詩歌 もなく紀行もなしという。