008:清水川原の中洲に見られる中津川の流路の移動・変化

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秋山郷の中津川沿い斜面は、雪解け水などにより崩壊や浸食・崩落が起こりやすく、大規模な崩落により大きな岩石や土砂が渓谷沿いに堆積したり、川を堰き止めたり、水流により河床や川岸を浸食したりを繰り返してきており、中津川の流路を大きく変化させてきた。

川沿いの崩落地は急崖地となっているほか、川沿いに残された岩石は、『北越雪譜』の鈴木牧之による「秋山絶壁の図」や「猿飛橋の図」に見られるように絶壁や狭隘な渓谷を形成し、古くから通行を妨げてきた。秋山郷の中津川にはこうして作られた大小様々な河原や渓谷が数多くあり、中津川の流路を蛇行させている。

清水川原は猿飛橋付近の狭隘な渓谷の上流部に位置し、秋山郷の中津川でも大きな河原を有している。地図や航空写真(国土地理院)から見ると、1960年以前の状況を示していると思われる10,000分の1地図では、現在の流路の他に北西側の斜面直下まで大きく蛇行した流路があり、大きな中州を形成していたが、この流路は現在、斜面からの土砂により完全に埋まり樹林地となっている。

1960年代の航空写真では、この蛇行した流路の一部に小さな流路が見られるが、1977年の航空写真ではこの小さな流路も見られなくなり、現在の樹林地の境界付近を流れる流路(中州中央部の流路)と現在の流路が主となっており、中州も小さくなっている。

2016年の航空写真では、この中州中央部の流路も石や砂利などかつての川の跡が見られるだけとなり、現在の流路である段丘沿いの流路だけとなっている。このように清水川原の流路が徐々に南西方向に移動していることがみてとれる。

現在の流路は2016年の流路に近いが、中洲上には何本もの旧流路の痕跡が見られることから、伏流水の流路あるいは、大雨時に流路となっていると言える。

鈴木牧之の時代、1820年以前は1960年代以前の状態より北西側にも大きな流路(蛇行)があったことが見てとれる。また、1956年に中津川上流の野反ダム(東京電力)が完成する以前であり、当時は流量も多く流れが速く、清水川原の中州には多くの水流があったことやそれぞれの幅が広かったこと、また水面が広がっていたことなどが考えられる。