08:驟雨がくる前に:『秋山紀行』の自然学的視点からの推考の試み ── 磯辺行久

English Version is Available

『秋山紀行』は鈴木牧之が旧暦1828年9月8〜14日の1週間にわたり、新潟県の現・見玉より中津川を上流に向かって、信濃の雑魚川と越後の魚野川が合流する切明に至る峡谷地域を歩んだ記録である。東⻄に点在する13の群落を含む峡谷地域における観察・聞き取りの文章、スケッチが含まれており、秋山郷の村の状況、支配従属関係、貢租関係、生産歴、衣食住、方言、信仰、風俗習慣について詳細に記録されている。

そこには秋山郷の往時の気象条件(雪・雨)、河川(流路・水量)、地形、火脈、天然ガス、疾病(疱瘡・天然痘)といった自然学的な記載が含まれているものの、その量は多くない。そこで私たちは河川の流路、局地気象などに着目し、自然学的な視点から『秋山紀行』の論証を試みることとした※1-3

※1:『秋山紀行』に影響を受け、⺠俗学の発展に大きな役割を果たした柳田国男が⺠話・伝説を採集した『遠野物語』。三百話の中で特に名高い三十七〜四十話で語られた日本オオカミの絶滅についての⺠譚を、生態学者・文化人類学者で登山家であった今⻄錦司が自然科学の視点から証明してみせたことはよく知られている。このことは『遠野物語』は周囲の環境をも包摂したひとつの自然誌・生活誌としての側面を持つことを物語っている。仏文学者の桑原武夫もこうした漢籍の記憶を大切にしていたと言われている。

※2:宮澤賢治は北上川の西岸にある青白い凝灰質の泥岩が川に沿ってかなり広く露頭している様をみつけ、白い泥岩層をイギリスの海岸にみたて親しんでいたという。その泥岩(第三期層の終わりには海のなぎさであった)の露頭は、川の水が増すたびに洗われるのでなんとも言えずさっぱりとして見えたという。その証拠に泥岩は東の北上山地の縁から西の中央分水嶺の麓まで一枚の板のように広がっていたという観察、考察は興味深い。

※3:イサベラ・バードが日本滞在中に書きとめた『日本奥地紀行』で、会津〜越後まで阿賀野川を下って見聞した紀行文も当時の阿賀野地域の人と文化の様子を記録していて興味深い。