「葬儀と火事には二分の情けがあった」 “文化人類学手法によるフィールド・ワークから”
はじめに
地球の温暖化を一気に通りこして地球の沸騰化(国連事務総長声明)の時代、自然災害の凶暴化、東ヨーロッパ、アフリカ各地で多発している戦乱、食料危機の時代にあって、私達にできることはなにかを考える時代になっています。
職業的な現代美術家による欧米起源の“現代美術”のレトリックで越後妻有の皆さんを説得できる可能性は極めて限られてきていると考えています。
そこで、この疑問について越後妻有の地域の皆さんと相談し、越後妻有地域の皆さんとなさんがこの特異な時代になにを芸術祭(必要性の有無を含めて)求めているかを話し合うことから始めることにしました。それは住民参加の名前で軽視してきた地域住民への従来のご説明、対応だけでは、全く次元の異なる時代の地域に皆さんの要望は見えてこないでしょう。みなさんが2022年の芸術祭で二つの旧小貫村のプロジェクトになにをどう見たかを庭野武一さんに、来訪者の皆さんのご意見、反応を聞き取ってもらいその結果をまとめていただきました。
その中で庭野武一さんは地域住民及び様々な理由で地域外の移住した方々、および縁のある方々への広報のあり方に問題があるということを指摘されております。
そこで、中条・飛渡小貫に“休村”に至るまで住んでおられたお二人の旧住民にあるべき地域の要望についてお聞きすべく庭野三省さんに大地の芸術祭2024年の企画書をかいていただき、それにもとづいて私どもが現場作業を地域の人々と相談しながら具体化作業を進めることで了解いただきました。以下は過程の設置図書と作業手順です。
かつてグローカルと言われたことがあります。その意味は環境に関しては限られた地域でかんがえることではなく、世界規模で考えようとするものでした。しかし最近の自然環境、社会科学の状況を見ていますと現実の様相が逆転し始めている事に気付きます。
特に自然災害、洪水、干ばつ、沸騰高温、台風の異常行程 豪雨(線状降帯)等の状況は世界共通で派生していますが、反面それらは極めてローカルな条件によって様々な被害の様相がちがってきます。極めて地域的な自然条件に起因しているということです。“地域ファースト”がこれからの重要なキーワードになってきます。
2024年「⼤地の芸術祭」磯辺⾏久⽒のプロジェクトに向けて:庭野三省(令和5年7月 旧⾶渡・中条⼩貫集落 住⺠)
1 コンセプト
少⼦⾼齢化の煽りを受けて、かつての⼭村は急ピッチで全国同時で閉村が進んでいる。⼗⽇町市中条の⼩貫集落もその⼀つである。しかし村の歴史を振り返ると、村に活気があった時代があった。その最後の時代が、昭和30年代である。この活気があった最後の時代の⽚鱗を、アート作品を通して再現することは意義があることである。
故郷への郷愁を誘うだけでなく、⽇本⼈の本来の姿も可視化できるからである。その⼿掛かりとして、マイカー時代が訪れる前に⼭村の若者を魅了した耕運機(合むリヤカー)⽂化と村⺠で協⼒して⾏った葬儀⽂化が挙げられる。この⼆つの⽂化を⼩貫で、何らかの形で表現できれば、昭和の戦後史の⼀ページを再認識することができる。
2 マイカー⽂化の先取り
庭野武⼀宅には、昭和30年代の後半頃、耕運機でリヤカーを引き、それに当時の⼩貫の若者が乗り、ドライブをしている光景の写真が数多く残っている。耕運機の登場は、村の農作業を⼤きく変えたことは歴史的事実である。耕運機が⼊らない前の農村では⼈⼒の耕し、さらには⽜や⾺を使い、⽥植えに備えた。耕運機が⼊ることによって、⽥かきの作業の効率が上がった。さらに秋の稲刈りでは⼈⼒で刈られた稲束をはざ(⼩貫では「はって」と呼ぶ。)に運ぶ作業も楽になった。
さらに耕運機を運転できる村の若者は、リヤカーに村の若者を乗せて今でいう、ドライブもするようになった。もちろん当時は道が舗装されていなくて、運転する⽅も乗る⽅も⼤変だった。それでも村の若者は、この新しい⽂化に魅了されたのである。リヤカー付きの耕運機で若者が遊び回る光景は、その後、やってくるマイカー⽂化の先取りであった。
いきなり、マイカー⽂化が⼭村に侵⼊してきたのではないのである。この過渡期こそ、ある意味で⼭村が輝いた最後の時代になる。
3 葬送⽂化
⽇本⼈の特性として、「和」を⼤切する⺠族性がある。(⾶渡・中条の⼩貫集落には無縁だったが)⼀般的には差別⽤語なっている「村⼋分」にも、(⼆分の情け)がある。それが⽕事と葬儀である。この⼆つが⽣じたときには、村挙げて助け合ったのである。
かつて⼩貫には⽕葬場があり、亡くなった村⺠を焼いていた。葬儀が⾏われたとき、村ではどのような動きになったのか、何らかの形で可視化すると、改めて⽇本⼈の「和」の精神を⽰すことができるはずである。
4 かつての⽣活の具現化に向けて
耕運機とリヤカーについては、庭野武⼀宅に残されている写真をもとに、パネル等で⽰すようにする。その⽰し⽅については、パネルの数を検討しながら決めていく。葬式⽂化は前回、⽰した「葬儀時引導場」から実際にあった⽕葬場までの道を復活するようにする。歩いても5分もかからない。なお途中、ブナと杉の混交林がある。そこに道を回すようにして、雪国の植⽣の特⾊を⽰すようにしたい。
葬儀文化が村をつくり、村人の“和み”の心を育んだ
1 葬儀の行い方
小貫では村内を4グループに分け、葬儀を取り仕切った。
当時者の内巻:家の掃除、膳椀の準備や道具揃え、ご馳走造り、お客様の受け入れ準備
外巻:親戚やお寺への連絡(使い)
他の二巻:遺体焼却場(焼き場)の山造りと遺棺担ぎ
※現在のように電話や車があった時代ではない。全て歩き回りながら、これからの仕事を分担して取り組んだ。
2 お棺の準備
お棺は現在と異なり全てが縦棺。村の大工さんが造り、普通の大工さんの日当の3倍を払うのが約束ごと。お棺に入ると長生きするという話が語り継がれていて、「いたずらに中に入ってみたら出られなくなり、やっと出たという体験をした子供もいた。
遺体をお棺に納めてから、宮造りの屋根を載せ、担ぎ棒の上にセットする。赤色以外の飾りをお棺につけて完成。
3 葬儀
小貫には庭野巻が浄土宗、春川巻が曹洞宗である。小さな村でも宗派が分かれていたのが不思議である。葬列の一番前には松明を持った人がいて、その後に5~10人程度の子供が縦列で続く。手に龍の絵が描かれた吹き流しの竿を持って歩く。
次に親類縁者、身内の者、白装束の喪主、霊前を持った身内、お寺様と続く。最後は四人の棺桶持ちとなる。その後には一般の参列者が続くことがある。この列が長いほど、その小貫の村にとって大事な人だった。なお、先頭の子供たちは絶対に転ぶな、転ぶと罰が当たると言われ、緊張して歩いたという。
4 引導場
引導場は村の外れにあり(小貫の場合、久保田の上の小さな広場で)最後のお経をあげて、葬儀が全て終わる。ここで棺桶の飾りを全て外し、棺桶は背中に背負われ、焼場まで運ばれる。
5 焼き場
焼き場の燃料は杉の葉、柴木、ころ(薪)などで、遺体が完全に燃えるまで苦労した。焼き場の「山ごしゃい」をした人は、お斎が終わるまで火の番をする。お斎が終わる頃を見計らって、火の番は親戚の人と交代する。ただしずっと焼き場にいるわけではなく、喪主の家でお酒を飲みながら、ときどき見に行っていた。見に行ったとき、仏様が火の中にいないで外に転がり出ていることもあり、再度、火床の真ん中に移したこともあった。いずれにしろ、現代の火葬場のように火力が強くなかったので、大変だったと思われる。
6 その後のこと
お骨拾い、お念仏、ご苦労呼び(内巻と親戚の方が無料の手伝いをした慰労会)、まな板直し(精進あげ)と続き、葬儀には合計で7~8日ぐらいの日数を費やした。いずれにしろ、一つの葬儀に村中、挙げて取り組んだ。なお、このような葬式全体が分かる方は、小貫では庭野武一氏一人になった。
しかし葬儀で村がまとまっていたことは、村づくりに大いなる貢献をしていたことは確かである。武一氏曰く、「小貫の人は仲がよかった!」と。
葬儀の取組を通じて、かつての村人は“和み”の心を育み、助け合って生きてきた。コロナ禍が過ぎ去り、たくさんの外国人が日本を訪問するようになっている。彼らは来日すると、日本の美しさや日本人の優しさに感謝している。
これらを支えている日本人のバックボーンの一つに、葬儀の取組があったと考えられる。葬儀の取組を通じて、日本人特有の“和み”の心という、日本人の精神が継承されてきたからである。 (文責 庭野 三省)
マイカー⽂化の先取り 【写真提供:庭野武一さん】
庭野武⼀宅には、昭和30年代の後半頃、耕運機でリヤカーを引き、それに当時の⼩貫の若者が乗り、ドライブをしている光景の写真が数多く残っている。(上記参照)
コメント